米国旅行 united states

非暴力社会変革センター|アトランタ(米国)1987

軌跡 1「原点」


海外志向の原点


私、田中保彦の海外志向の原点、それは学生時代にある。雑誌「スコラ」での立花隆氏へのインタビュー記事、そして、落合信彦氏の自伝ノンフィクション「アメリカよ!あめりかよ!」に出会った頃にまでさかのぼる。立花氏は大学時代に欧州を旅し、「自分の想像していたよりも、世界があらゆる意味で広くて深い。」と感じ、そして、落合氏は、「日本脱出を決心し、目をアメリカに向けた。自分の将来はアメリカにしかない。」と米国の大学への入学を果たした。共に海外渡航に厳しい制限が掛けられていた時代の話である。私は自分の将来を考えた時、その頃から「海外事業に携わりたい」と漠然とではあるが思うようになった。


人生初の海外旅行はその頃で、1987年、米国をバスで横断した。それは、ロサンゼルスからヒューストン、シカゴ、フィラデルフィアを経由し、ニューヨークまでの旅である。グレイハウンドバスの夜行便に乗り、翌朝には次の目的地に着くというスケジュールで、ホテル代をできる限り節約した。興味深かった場所は数え切れないほど多くあるが、その内の一つが公民権運動の指導者・キング牧師の遺志を引き継いだ非暴力社会変革センター(アトランタ)である。前年、コレッタ・キング女史(キング牧師夫人)が、私の通う西南学院大学の創立70周年記念講演会のゲスト・スピーカーとして初来日をされていたので、同センターには西南学院大学の講演会のポスター(日本語)が貼られていた。何よりも衝撃だったのは、そこで鑑賞したフィルムである。人種差別が激しかった時代を映し出したもので、トイレが白人と黒人とで区別されていた映像、黒人が放水車で吹き飛ばされている映像、どれもが衝撃だった。米国横断は、私にとって、とても考えさせられる旅であった。


卒業旅行は、違う世界を見たいと思い、1989年、インドを鉄道で一周した。インド鉄道を利用して、カルカッタ(現・コルカタ)から、マドラス(現・チェンナイ)、バンガロール、ボンベイ(現・ムンバイ)、デリーを経由し、カルカッタへと戻るのだ。チットールガルという町では、クリケットをしている少年たちと出会った。人口は2万人程だという小さな町で、外国人は珍しいらしい。色々な話をして、今後の予定を告げて別れた。ところがその日の夕方、駅の待合室にいると、クリケットの少年の一人がやって来たのだ。「夕食は取ったの?」と聞くから「まだだよ。」と答えると、「家で一緒に取ろう。家族の了承は取っているから。」と言ってきた。結局、その少年の家で、食事をご馳走してもらった。特製カレーである。お母さんが食事を作ってくれ、お父さんとその少年と共に三人で一緒に食事を取るという想い出深い夜だった。食事を終えると、少年はわざわざ駅まで見送ってくれた。夜行列車に乗り込んだ時、少年が、「外国人旅行者は狙われやすいから、物を盗まれないように気をつけてね。」と言っていた。その時、気にも留めなかったが、その少年の言葉の意味がやがて分かるようになる。


翌日、デリー駅に着き、目的地を巡って駅に戻ると、ストライキだと言うのだ。列車は動かない。その日も夜行列車で次の都市に向かう予定で、ホテルは考えていなかったので、バックパックを枕代わりにし、駅に泊まることにした。翌朝、起きて見ると、財布とパスポートは身に着けて無事だったが、それ以外の全ての荷物は盗まれてしまっていた。航空券、カメラ、撮り終わったネガフィルム、現地で買った珍しい香辛料の数々、そして着替えなど全てである。撮り終わったネガフィルムが一番の損害だった。旅を最初からやり直すわけにはいかないからである。航空券は再発行すれば済むし、カメラも買い直せば済む。大概のものは、お金があれば元に戻すことができる。しかし、少年と撮った写真は戻ってはこないのだ。現地の警察署では事情聴取の上、被害届を提出した。インドで最も英語を話したのは、この警察署かもしれない。このインドが、その後、違う形で、私の人生に関係してくることになる。


国内営業部門へ


1989年、三洋電機に入社し、国内営業部門である三洋電機九州販売に配属され、社会人生活は始まった。勤務地は、生まれ育った福岡である。1990年、鹿児島営業所に転勤となり、セールスとして、サンヨー薔薇チェーンやダイエー、寿屋、ベスト電器、マツヤデンキ、山形屋の担当となった。この鹿児島営業所の同僚に、のちに妻となる女性がいた。1992年、熊本営業所に転勤となり、サンヨーサテライトシステムやダイエー、寿屋の担当となった。結婚したのはこの頃である。1994年、北九州営業所に転勤となり、ミスターマックスやニチイ(現・イオン)、長崎屋、西友、マツヤデンキの担当となった。国内営業部門で、7年の月日が過ぎていた。


国内営業で学んだことは多々あるが、ひとつ挙げるとすれば、ポジティブ思考(Positive Thinking)で行動することが大事だということだろう。売れない理由を考える暇があれば、どうすれば売れるかに知恵を絞ったほうが、時間を無駄にせず良いということになる。国内営業で経験を積みながらも、ゆくゆくは、「海外事業に携わりたい」という思いは、変わらず持ち続けていた。そもそも、三洋電機の社名の由来は、太平洋、大西洋、インド洋に代表される世界市場に目を向けて事業を展開しようというところにある。当時、入社以来ずっと楽しみにしていたことがあった。それは、現況書の提出である。現況書には、現在の状況を報告するのと同時に、希望職種や希望勤務地を書く欄が設けられているのである。毎年、現況書を書くたびに、希望職種には、海外営業部門、希望勤務地には北米と書いていた。毎年書いていれば、遠くない将来、いずれ叶うだろうと考えていた時期でもある。


1996年の社内報で、本社・会長の「言葉は英語、通貨はドル、思想はコラボレーション」という記事を読み、改めて意を強くした。丁度その頃、入社後5年が過ぎ、任意の時に連続5日のリフレッシュ休暇が取得できるということで、前後の土日を加えて9日間の休暇を取らせてもらった。妻と一人娘を連れ、目的地は英国。大英博物館、バッキンガム宮殿、ウェストミンスター寺院、トラファルガー広場、タワーブリッジと見所は多くあった。そして、ピカデリーサーカスで「SANYO」のネオンサインを見た時、「海外事業に携わりたい」という思いは一気に駆け上がった。帰国後、「現況書の提出だけでは足りない。行動に移す時だ。」と考え、ある時、労働組合の九州支部長に電話を入れた。「海外事業に携わりたい」という希望を伝えると、労働組合経由で、海外事業の要である三洋電機貿易まで話を繋げて頂いた。その後、同社の取締役人事総務部長が福岡に来られる機会があり、九州支部長と共に面談が設けられた。その時、「社内公募で海外派遣要員を募集するので、希望するのであれば応募するように」と告げられた。


実施要領によると、原則として、現在海外関連業務に従事していない人を対象とし、応募に関して、人事部から一切職場に通知しないので、応募者も職場に通知せずに受験せよということだった。横槍が入ることを防ぐためである。応募及び選考は全て水面下で、事実、連絡先は自宅とし、職場は不可であった。担当地域はアジア。舞台は整ったのだ。応募用紙には、国内営業の経験を根幹にし、インドを切り口のひとつとして加えながら書き上げた。インドでのトラブルについては、仕事とは関係ないので触れず、インドの市場性を中心に取り上げた。インドは、現在とは違い、保護主義貿易がまだ強い市場であった。そして、応募書類を送付し、大阪の本社で面接があった。何日位待っただろうか。しばらくして、自宅に連絡が入った。本社の人事部からで、三洋電機貿易への異動決定通知だった。私の人生を大きく変える転機、それは、この瞬間にあったのだと思う。


⇒ 軌跡2「転機」へ


英国旅行 united kingdom

ピカデリーサーカス|ロンドン(英国)1996