パンフレット

軌跡 5「試練」


外国語スクールの開校


2006年、福岡に戻り、新たな外国語スクールとなるオリエンタルスクールで、新しい人生を切り開くことにした。スクールでは、アジアの主要言語を取り扱い、英語、中国語、韓国語、タイ語、インドネシア語の五カ国語をカバーした。そして、外国語を学びたいという生徒さんがいても知らないところで学ばないだろうと、まずは認知度の向上に努めた。レインボープラザ(天神|イムズ)、福岡県国際交流センター(天神|アクロス福岡)、アジア太平洋インポートマート(小倉|AIM)、北九州国際交流協会(黒崎|コムシティ)、久留米国際交流協会(久留米市民会館)など、外国語を学びたい人が集まりそうなところを訪れ、スクールのパンフレットを置いてもらった。同時にホームページも立ち上げ、ケイコとマナブ(リクルート)、タウンページ(NTT)、西日本新聞などには広告を出稿した。その効果もあり、北は北九州から、そして南は佐賀から生徒さんが学びに来て下さるようになっていった。


一方、新しい生活を始めるにあたり、「家族にとって、幸せな生活とは何だろう?」と思いを描き、家族が理想とする住まいで暮らせたら、それはきっと家族の生活に張り合いを持たせることが出来るだろうと考え、妻と娘たちが気に入った新しい住まいが一つあったので、そこを買い求め、暮らすことにした。私からすれば、家族の生活に張り合いを持たせることが出来れば、それが何か好転のきっかけになるかもしれないという期待はあった。しかしながら、その期待はやがて、もろくも崩れ去る。そんな想いとは裏腹に、数カ月過ぎたある日、妻は再び倒れてしまい、集中治療室に運ばれてしまったのである。私が仕事に加え、家事や育児などに手探りで向き合う生活は、この日から始まった。そして、この日を境に生活は一変した。


当時は、朝、家を出る前に、私が夕食の準備をしておいて、娘たちが帰宅したら、自分たちで食事ができるようにしておいた。ある時など、その準備を忘れて仕事に出て行ってしまったために、夕方に、「夕食はどこにあるの?」と、娘から電話があり、慌てて帰宅するなんてこともあった。当時、長女が小学六年生、次女が小学二年生だったので無理もなかった。そして、そんな慌ただしい生活ではあったけれども、辛いことがあっても、それがずっと続くことなんてないはずという思いもあったし、インドネシア語の格言に「HABIS GELAP TERBITLAH TERANG.」という言葉もある。それは、「朝の来ない夜はない。」という意味で、「そう、朝の来ない夜などないのだから、今は頑張れ。」と、自分に言い聞かせるようにしながら、日々を過ごした。


話は戻り、スクールでは、「駐在予定者向けコース」を開講した。それは、駐在が決まってから赴任するまで、時間的な余裕があまりないので、一ヶ月で修了する短期集中レッスンのことで、駐在前の不安を少しでも軽減することが出来ればという狙いもあった。そんな中、放送局の記者が、ソウル特派員の内示を受けたので、このコースで韓国語を学びたいとやって来た。スクールで学ばれてから、どの位の時が過ぎただろうか。ある日、TVを観ていると、全国放送の報道番組で、この特派員がソウルで現地取材を行っている模様が映し出されていた。韓国語講師にとっては、自分の教えた生徒さんが韓国で活躍している姿を、画面を通してでも観れたことが嬉しかったようだった。私も特派員の活躍が頼もしく思えたし、スクールも社会に対して少しばかりは役立っているような気がした。


開校して一年すると、女子大学生が中国語の体験レッスンにやって来た。体験レッスンとはいえ、既に流暢な中国語を操っていて、中国語講師も舌を巻いていた。彼女は、中国語専攻というわけではなく、第二外国語で中国語を履修しているに過ぎなかったので、当然、第一外国語の英語となると、それ以上である。私の学生時代、第二外国語を流暢に話せる人はいなかったので、私にとっても驚きだった。彼女は、将来、放送局のアナウンサー志望だと言っていたので、私はある女性の話をした。ある女性とは、私の結婚式で司会を務めた女性で、私の通っていた大学の後輩である。卒業後は、放送局でアナウンサーとして活躍をされていたので、その話をしたのだ。すると、是非お会いしたいと言うので、会えるようにセットアップした。三人で会った時、後輩は言葉を発した時、すぐ他の言葉に言い換えたことがあった。きっとアナウンサーという職業柄か、言葉のニュアンスの違いを感じ、豊富な語彙力の中から、最も適切な言葉に言い換えたのだろう。そこに研ぎ澄まされたプロ意識も垣間見えたし、私は外国語を扱う者として、常に最も適切な言葉を選ぶという意識は見習わなければならないとも思った。女子大学生は、卒業後、放送局にアナウンサーとして入社したので、会った意味はあったのだと思う。


通訳・翻訳サービスの提供


外国語スクールというのは、文字通り外国語を教えるところである。すると、外国語を扱うことから、通訳や翻訳の仕事も舞い込むようになっていった。ある時、厚生労働省の検疫部門から相談を受けた。内容は、空港や港で掲示するポスターを英語、中国語、韓国語の三カ国語に翻訳するという案件である。巷には、英語スクール、中国語スクール、韓国語スクールはあっても、複数の言語をまとめて取り扱う外国語スクールが少ないことから、話が舞い込んだようである。ポスターにはいくつもの種類があり、デング熱、マラリア、ウエストナイル熱、鳥インフルエンザ、狂犬病などが取り上げられていた。それを、英語、中国語、韓国語に、それぞれの外国語講師が翻訳していくのである。英語翻訳者は翻訳する際、日本人が翻訳した英語表現を見ながら、「日本語をそのまま英語に翻訳しても伝わらない。」と言って、英語圏で自然に使われているような表現に随分と工夫しながら翻訳してくれていたので心強く思ったものである。


外国語講師との印象的な出会いもあった。インドネシア語の女性講師は、随分と年季の入ったインドネシア語テキストを持っていたが年齢が若かった。そのテキストについて尋ねると、元々、お父様が持たれていたもので、お父様が以前、インドネシアから日本に留学されていた時、留学のかたわら、日本人にインドネシア語を教えるために使っていたのだという。「道理で」である。当時、本人は福岡の中学校に通っていて本帰国するとなった時、福岡空港には大勢の同級生が見送りに来てくれていたという。本人が、「福岡から離れたくない。」と言うと、お父様に、「次は自分の力で福岡に行きなさい。」と言われ、そして、今度は、自分の力で福岡に来ることを果たし、大学院に留学のかたわら、お父様の持たれていたテキストで教えているのである。その情熱に、私は頭が下がる思いだった。


一方、家庭では、妻の入院生活が長引いていて、一年を優に超えていた。それは、ある日曜日の夜、一週間分の食材の買い出しに、自転車で出掛けた日のことである。行く途中、私がハンドル操作を誤り、転倒してしまったために、左腕に大きな痛みが走った。家に戻った時、長女に手当をしてもらいながら、これは何かの前兆ではないかと不安に駆られたが、その何かが分かるまで、時間は掛からなかった。翌日、主治医から、大事な話があると連絡が入ったのだ。病院に向かうと、妻の容体が急変しているので、近親者には伝えるべき段階にあるという話であった。それまで退院すること、ただそれだけしか考えていなかったので、私は、わけが分からなかった。そもそも前月には、退院に向けたリハビリテーションを本格的に開始していたのである。連絡を受けたのが月曜日、妻が人生の舞台を降りたのは金曜日、連絡を受けた日から数えると、余命はたった五日しかなかった。


前述したアナウンサーをしている後輩に訃報を伝えると、「言葉が見つかりません。」と。豊富な語彙力を持つ彼女が発した言葉ゆえ、その言葉は私の胸にストンと落ち、自分でもこの言葉を繰り返したほどだ。家庭環境の変化が何を意味しているかは娘たちも充分に理解してくれている様子で、早速、長女が、「これからは、私も料理を作る。」と言ってくれた。協力的な娘たちを持てたことで、私の心も幾分軽くなるような気がしたのも束の間、妻が人生の舞台を降りて一週間後、今度は私が倒れ救急車で運ばれた。自転車で転倒した後、慌ただしく過ごしていた私であったが、左腕の痛みの原因は骨折で手術のため入院することとなった。その頃、新約聖書の一節をふと思い出した。「神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはない。|God is faithful, and he will not let you be tested beyond your strength.」(コリント人への第一の手紙10章13節)。私もこの試練が耐えられないものではないのだと、この時ばかりは信じるほかなかった。これからは娘二人と三人、「希望を見失わないように生き抜いてみせる。」と心に誓った。賽は投げられたのだ。


⇒ 軌跡 6「希望」へ


ポスター english

厚生労働省 デング熱ポスター(英語版)