インドネシア駐在 indonesia

SETRINDOの仲間と共に|ジャカルタ(インドネシア)2004

軌跡 4「祈念」


ジャカルタへ駐在


駐在先であるSETRINDO(SANYO Electric Trading Indonesiaの略)には、私を含めて日本人が3名いたが、2人とも大学でインドネシア語を学んでいた。数ヶ月すると、その内1名が転出をされ2名体制となる。駐在先は、三洋電機貿易と現地資本との合弁会社として設立され、新体制下では、社長と副社長はインドネシア人になった。もう一人の駐在員は、インドネシア人女性と結婚をされ、駐在も10年を超えていた。ありていに言えば、上司はインドネシア人で、同僚はインドネシア人の奥様を持ち言葉の問題も何不自由なく生活をされているという環境だった。それゆえ、私にはインドネシア語の習得が課せられている。そこで、<Universitas Katolik Indonesia Atma Jaya>の門を叩いた。現地の大学のインドネシア語コースである。駐在時には大統領選挙があり、デヴィ・スカルノ(インドネシア初代大統領夫人)がジャカルタに来訪され、「この大統領候補者は、21世紀のスカルノ」と流暢なインドネシア語で応援演説されているのを観た時、それは言葉の持つ力を思い知った瞬間でもあった。


ある日のこと鉄道で旅に出ると、車内では飲食のサービスがありメニューが配られた。「coffee(コーヒー)」は、インドネシア語で「kopi」という。食べ物の欄に、「bistik」とあったので、これは「biscuit(ビスケット)」のことだろうと、この二つを注文した。配膳されたのは、コーヒーとビーフステーキだった。「bistik」というのは、「beef steak」のことだったのだ。おかげで、随分と贅沢な旅となったが、これもひとつのレッスンだろう。やがて大学のコースは修了したので、プライベートレッスンのインドネシア語スクールへと移った。最初のレベルチェックでは「何でも良いので、インドネシア語で話をしてください。」と言われ、何とか文章を組み立てながら話をした。すると、「駐在して1年とのことですが、大学はインドネシア語専攻ですか?」と訊かれ、「文法も発音も完璧なので。」と付け加えて下さった。敢えて言えば、レベルチェックと言われたので、私が「普段、話している」インドネシア語ではなく、私が「文法と発音に細心の注意を払いながら話した」インドネシア語を、好意的に受け取って下さったのだろう。だから、個人的に実感はなかった。


私は、ジャカルタ駐在も単身赴任でスタートしており、当初は、日本の夏休み頃に家族を帯同しようかと考えていた。一方、初駐在の地バンコクでの家族帯同は単身赴任の1年後だったので、同じく1年間は、現地の仕事を体得することに専念し、その後、家族を帯同するのも悪くはないとも考えた。結局、学年が変わる春休みが切りも良いだろうということで、春休みを目処に家族を帯同することになった。そして年が変わり、関係部署に家族帯同の申請をしたところ、海外営業の責任者から家族帯同のストップが掛かった。理由を聞くと、本社からの通達で、海外駐在員の全社的な見直しをするとのことであり、一定期間、人事異動を凍結するのだと言う。夏休みに帯同しておけば、このような問題に巻き込まれずに済んだのだ。その後も私は継続的に状況の確認は続けていったものの、好転しないまま、家族を帯同させているはずの春休みを迎えた。それからは、ただただ時間だけが過ぎていった。


ある日を境に事態は急転する。妻が倒れ、集中治療室で治療を受けているとの連絡が入ったのだ。一時帰国し病院に向かうと、担当医師から、ストレスによる免疫力低下が原因と考えられるとの説明を受けた。当時、長女が小学4年生、次女が幼稚園の年長と、母親一人で育てるのは大変だったろうと思った。また、父親の単身赴任先がジャカルタで、母親は入院という状況を考えれば、これから先、娘たちの不安はいかばかりだろうとも思った。人事総務部長に妻の状況を報告すると、やがて新たな人事異動が発令され、私の駐在生活は終わった。現地法人での最終出社日には送別会が企画され、私が日本人だからか、社員の一人ひとりがなんと寄せ書きを書いてくれていた。それを見て、駐在では、多くの人に支えてもらいながらここまで来たのだと改めて思った。そして送別会の最後には、これまでの感謝の気持ちを胸に、スピーチに臨んだ。1年目は、家族とジャカルタに帯同することを熱望していたが、ただこの時は、家族のいる日本への帰国に安堵した。


最後の御奉公


帰国後の配属先は商品企画部で、担当商品は電子レンジであった。元々、三洋電機はフルフラットキャビンの開発などで、電子レンジのターンテーブルレス化に向けた大きな流れを作っていた。しかし、その一方で中国の台頭は目覚ましく、普及品を中心に製造委託先への生産の移管が進んでいた。私の担当地域は、アジア、オセアニア、中東、アフリカとなった。この時期、電子レンジの全世界統一モデルプロジェクトが企画されていて、それは、ストレートモデル(単機能レンジ)、グリルモデル(グリルレンジ)、コンベクションモデル(オーブンレンジ)を、機能別に、デザインにも工夫を凝らしていくというものだった。各仕向地の担当者から最大公約数的に意見の集約を図りながら、金型投資の採算性など、モノづくりの原点に携わることができたこと、また、製造側と販売側の双方の視点でモノづくりを見つめることができたのは、貴重な経験でもあった。


当時、我々の扱っている電子レンジを、最も早くに導入したのがオーストラリアの現地法人であったため、私は担当者としてオーストラリアへ出張する機会を得た。訪問先はシドニーで、目的は電子レンジのプレゼンテーションだ。その頃、プレゼンテーションの準備に時間があれば、心掛けていたことがある。それは自分で原稿を作り上げると、原稿の内容をICレコーダー(その昔はテープレコーダー)などに自分の声で吹き込むのである。そして、自分の声を聞きながら、発音の誤りを訂正すると同時に、発音の訂正が難しい場合は、同様の意味を持つ他の言葉に置き換えたり、文章そのものを組み換えたりして、完成度を高めていった。そして、まだ余裕があれば録音した音声を繰り返し聞き、プレゼンテーションの内容を頭に叩き込むようにもした。それは、電子レンジのプレゼンテーションの本番を翌日に控えた夜だった。ホテルの自室でひとり、本番の予行練習をしながら、「海外営業部門に来て10年、仕事に向き合う姿勢は変わらないが、成長もしていない。」と、ふと思った。


その頃、入社15年を過ぎ、10日間のリフレッシュ休暇を取れることになっていた。行く先は、家族との帯同が果たせなかったインドネシア。ジャカルタでは、私が駐在時に暮らしていたサービスド・アパートメントに宿泊した。そこにはプールがあったので、一緒に泳いだりしながら時間を過ごした。プールサイドで妻と子供たちの姿を見ながら、「駐在の早い時期に家族を帯同しておけば、今頃、家族と一緒にここに暮らしていただろうに。」と思いを巡らせた。また、駐在先であったSETRINDOに訪問すると、私たち家族を会食に招待して下さった。おかげで、SETRINDOの皆さんと私たち家族が一緒に歓談する機会にも恵まれた。副社長は避暑地として有名なスカブミに別荘を持っていらしたので、「週末そこへ泊まりませんか?」とも誘って下さった。妻と子供たちへの暖かい配慮が何よりも嬉しかった。


私は、人生の岐路に立っていた。入社以来17年になるが、転勤(海外駐在を含む)は9回になっていた。転勤は色々な街に住めるので、どちらかと言えば好きなほうではあった。しかし、私が単身赴任した時に妻が倒れてしまうと娘たちはどうなるのか、そんなこと深く考えなくてもわかる。現在、私の目の前に広がっている光景、それがその答えだ。大阪は長らく住んだ街だが、身寄りがないことに変わりはないし、不安を抱えながらまた辞令を気にしながら生活を送るわけにはいかないとも思った。会社の仕事が充実していようと、社員の代わりはいても、夫、父親の代わりはいないという思いもあり、退職することにした。そして、家族に再び幸せな日々が訪れることを祈念しながら、ここで再起動を図らなければならないと心に誓う。私がこれまでに培ったものを今度は恩返しする番なのだ。


送別会でのスピーチ indonesian

送別会でのスピーチ|ジャカルタ(インドネシア)2004