
チェンマイ舞踊団の男性と共に|博多どんたく港まつり
軌跡 7「挑戦」
オンラインレッスンの開講
スクールでは、レッスン以外の様々なことは私が担当していたが、レッスンそのものは、外国語講師が受け持ってくれているので、スクールを始めて十年もすると、随分と手持無沙汰になってきた。スクールの事業のプラットフォームは出来上がっているので、プラットフォームをそのままにしておいて、他のことにも挑戦したくなってきたのだ。当時、長女が22才、次女も18才を迎えていたこともその背景にはある。そんな中、日本のベンチャー企業であるFOMM(First One Mile Mobilityの略)が、日本で電気自動車を設計し、タイで生産し販売するというプロジェクトを知った。車両は、水害時、水に浮いて移動できるのが特長で、タイはそもそも、水害がよく起こる地域でもある。早速、応募すると無事、採用となり、2016年の春、私は単身赴任で横浜に移り住むことになった。横浜駅(京浜急行電鉄)のプラットフォームでは、「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)の曲が流れているのが印象的だった。私の配属は、海外事業部門で、当時、本社に試作車があるのみで、生産などはまだされておらず、これから生産販売するために、タイに現地法人を作るという段階だった。私の新たな挑戦は、ここから始まった。
横浜に移り住む前は、娘との三人暮らしで、出張などで、まれに短期間、家庭を空けることはあったものの、長期間にわたって家庭を空けることなどなかった。そこで、お盆の時期、三か月ぶりに、初めて福岡の自宅に帰省したところ、娘たち二人の表情がともに嬉しそうだったように見えたので、それを見て今度は私が嬉しくなった。家を空けて申し訳ないという気持ちもあり、帰省期間中はいつも、料理を作るのが私の役目であり、楽しみでもあった。ゴールデンウイーク、お盆、年末年始といった長期休暇は、必ず福岡に帰省した。ある時、TVでは、「帰り道は遠回りしたくなる」(乃木坂46)の曲が流れていて、私は自分の学生時代を思い出し、「帰り道は遠回りしたくなるよね?」と、次女に話を振ると、「私は用事が済んだら、真っ直ぐに家に帰りたいタイプ。」と答えた。きっと深い意味はないのだろうが、その答えを聞いて、私の家庭の運営に間違いはなかったのだと信じたい自分がいた。
横浜に移った翌年、2017年のゴールデンウイーク、博多どんたく港まつりに、「タイ王国どんたく隊」がパレードに出るので、スクールのタイ語講師の誘いもあり、私は、タイ語コースの生徒さんと共に、「タイ王国どんたく隊」として参加する機会に恵まれた。これまで、博多どんたくを見に行ったことは、何度もあるけれども、パレードに参加したのは初めてで、私は、バンコク駐在時に買ったタイの民族衣装を、タンスから十数年ぶりに引っ張り出して着てみた。参加者には、タイ王国政府観光庁より、参加記念のTシャツ、タイの伝統的な傘、そして、タイ国旗が配られた。また、チェンマイ舞踊団の男性と一緒に写真を撮ってもらえたのは、とても良い思い出となった。
スクールでは、2017年の秋、名古屋在住の女性より、マレー語のオンラインレッスンの問い合わせがあった。当時、オンラインレッスンをまだやっていなかったが、女性の話では、名古屋ではマレー語を希望するスタイルで学べるスクールがなく、オンラインレッスンで学べないかと、日本のみならず、マレーシア本国にも問い合わせをされたのだといい、オリエンタル外国語スクールへも、ダメもとで問い合わせたしたのだという。元はと言えば、そういった外国語を学びたい人の一助となればと考えて始まったスクールなので、逆に、オンラインレッスンを断るという判断はないなと思った。オンラインレッスンであれば、福岡に限らず、日本中、いや世界中で受講が可能になる。女性は、特に熱心な生徒さんで、マレー語レッスンを毎週、楽しみにしている反面、レッスンの前日からは、震えるほどの緊張もするのだといい、レッスンに対する意気込みが充分過ぎるほど伝わってきた。オンラインレッスンを引き受けるという判断に間違いはなかったのだと心の底から思ったものである。
ベンチャーの世界
事業も生産開始の目途が立ち、2018年の春、世界五大モーターショーの一つであるジュネーブ国際モーターショー(スイス連邦)にFOMMの車両を出展することになった。自動車メーカーの多くは、世界中に拠点を設けているが、ベンチャーである我々は、世界中どころか欧州にさえ拠点はなく、いざ日本から出展する車両を輸出する際、日本側の荷主とスイス側の荷受人が同一という状態だった。また、スイスで輸入する際、関税などを一旦支払わなければならないが、ATAカルネ(物品の一時輸入のための通関手帳)を使えば、関税などの支払いが免除されるというので、ATAカルネを取得するため、日本商事仲裁協会を訪ねた。話によると、自動車メーカーは大企業が多いため、そういったところは、担保もなしに申請だけでATAカルネを取得できるらしいが、我々ベンチャーは、社会的信用度に欠けるため、担保が必要だという。その担保の額は、実際に輸入する際に支払う関税の額よりも大きかった。そうなると、ベンチャーである我々にとっての利用価値は少ないと感じ、ATAカルネの取得は諦め、一旦、関税を支払うことにし、スイスから再輸出する際、支払った関税は戻ってくるので、それで決着した。
今回、ジュネーブ国際モーターショーに出展する車両は試作車なので、どれも一台限りでスペアがなかった。車両を日本から輸出する際、私は横浜港に向かい、税関で輸出許可書が発行されると、今度は、私が車両を運転しコンテナに積み込んだ。車両が輸送中、動いたりしないよう固縛されると、やがてコンテナの扉が閉められ、扉にはシールが取り付けられた。そして、コンテナはジュネーブに向かうわけであるが、スイスは内陸国で港がないため、横浜港からジェノバ港(イタリア)までは海上輸送で、ジェノバ港からジュネーブまでが陸上輸送という形だ。コンテナがジュネーブに到着する直前に私は日本を出発して現地入りし、ジュネーブ国際モーターショーの会場であるパレクスポで待った。そして、コンテナが到着し、シールが取り外されると、扉が開けられ、ブースの設営に取り掛かった。
ジュネーブ国際モーターショーが盛況なまま終わると、次は、十日後にバンコク国際モーターショー(タイ王国)が開催され、それにも出展するため、私は車両の輸送手配に専念した。前述の通り、どれも一台限りでスペアがなく、また、ジュネーブまでの輸送と違い、バンコクまでの輸送は時間がないため、航空輸送になるのだ。航空輸送の際、車両はコンテナではなく、木枠梱包となり、出来るだけ容積と重量が小さくなるようにした。また、電気自動車は、リチウムイオン電池で駆動するため、航空機に載せる際、かなりハードルが高かった。リチウムイオン電池もスペアがないため、航空輸送する必要があるのだ。モーターショーが始まる二日前にはVIPデーと称するVIP関係者への披露もあるため、実質的に一週間で、すべてをやり遂げねばならないのだ。何とか、無事に車両がバンコク国際モーターショーの会場であるインパクト・ムアントンタニに到着し、展示が終わると、私は日本への帰途についた。
私の横浜での住まいは、シェアハウスで、住人は、米国人、韓国人、インド人、ベトナム人など多彩で、半分以上が外国人だった。キッチンは共用なので、ある時、ベトナム人がフォー・ガー(鶏肉のフォー)を作っていて、私にごちそうしてくれたこともあり、鶏肉の柔らかさと味付けが絶妙だった。また、別の日には、チャオ(お粥)も作ってくれたこともあり、ベトナム料理ならではというか、ザウムイ(パクチー)がふんだん使われていて、パンチのある味付けになっていた。そして、何だかシェアハウスという空間の中で、優しさまでシェアした気分になったものだ。こんなこともあった。週末、私が住まいの近くの店に入ると、そこでは、地元の人が話をしていて、「今でこそ、横浜中華街というけれど、昔は、南京町と呼んでいた。昔から、大陸(中国)系と台湾系は仲が良くなかった。」と。その時、日本の中にも、世界の縮図はあることを知った。
その横浜中華街には足繁く通ったので、美味しい店を見つけはしたものの、匠(Jang)(四川料理店/横浜駅)の麻婆豆腐は、絶品としか言いようがなかった。横浜中華街の近くには、伊勢佐木町(横浜)があり、そこには、リトルバンコクと呼ばれるエリアがあり、私の住まいから近いこともあり、よく通った。タイ料理店、タイ食材店が軒を連ね、私が店に入ると満席になり、日本人は私だけなんてこともあった。まるでバンコクにいるような錯覚を起こさせる街である。食べ歩きで東京まで足を延ばすと、カレーの街として知られる神保町(東京)がある。ワンプレートの日本のカレー、カトリ(小皿)の付いたインドのカレー、グレイビーボート(ボート型のソース容器)の付いた英国のカレーなど、ありとあらゆるカレーが、この街にはあった。中でも、インドのカレーを食べる機会が一番多く、マンダラ(インド料理店/神保町)は、本格的な味で、店の雰囲気も落ち着いた感じで良かった。また、同地には、メナムのほとり(タイ料理店/神保町)があり、上品かつ本格的な味で私の大のお気に入りとなった。
2019年、次女は成人式の年を迎えた。次女は、成人式そのものには出席しなかったので、振袖を着る機会がなかったが、せめて、振袖の写真だけでも記念に残しておきたいというと、その意を酌んで写真を撮ってくれた。そう言えば、長女も成人式には出たくないと言っていたが、私が出て欲しいというものだから、その意を酌んで出てくれた。あの時、成人式には出なくても良いから、振袖の写真だけは撮って欲しいと言えれば良かったのだと、その時を振り返って思った。前述のように、私は、以前、自分の眼に映っている生活を映画になぞらえ、この生活のエンド・クレジットが流れるのは、いつになるのだろうと思ったものだが、次女の成人式の振袖の写真を撮影出来た今、エンド・クレジットが流れているような気がした。娘二人が成人したのだから、私は父親としての役割は大方終わったような気がしたのだ。ここで、第一幕がやっと終幕となり、ここから、第二幕が始まるのかもしれないとも思った。

ジュネーブ国際モーターショー|ジュネーブ(スイス)