軌跡 2「転機」
配属先はアジア営業部で、担当国はインドだった。私がインド担当になったのも、応募用紙にインドを切り口として書いたからだと、後から聞いて知ることになる。この点は、大きな誤算だった。私は、単にインド担当になったのではなく、次期のバンガロール(インド)駐在員候補になったからだ。当時、インドでは、現地法人の営業部門に副社長として、日本人がたった一人で駐在し、他は、インド人スタッフにより構成されていた。文字通り、日本からの代表者的立場と言えなくもない。日本側と連絡を取り合って相談はできるものの、現地側では事情は異なる。歴代のバンガロール駐在員も全員が、海外営業で数十年の経験があるベテランばかりである。駐在経験一つを取っても、アフリカ、アジア、北米と、それぞれが数多くの国際間交渉のテーブルにつき、外国人との駆け引きにも通じている。
国内営業部門から異動した私は、国際貿易取引条件である「EXW(工場渡し条件)」、「FOB(本船渡し条件)」、「CIF(運賃・保険料込み条件)」、「DDP(関税込み・持込渡し条件)」などの取引条件でさえ、一から覚えていかねばならない状態で、当然のことながら、外国人との駆け引きなど知るはずもなかった。それ故、私は、日本人が一人で駐在するバンガロール駐在員候補になったことへの不安と焦りは尋常ではなかった。そこで、不安を払拭すべく、まずは、貿易に関する専門用語を、徹底的に頭に叩き込むことからスタートした。社内の国際輸送部門、外国為替部門など、数多くの専門家達に教えを請いながら、また、私の所属するアジア営業部の上司や同僚に助けてもらいながら、日々を過ごした。
アジア営業部に配属されて一年すると、初めてインドへ出張する機会にも恵まれた。前回の旅行から数えると八年ぶりのインドである。私の上司は、私がインド担当になったばかりの頃、現地法人の副社長を務めていた方で、無論、インド事情には精通されており、本帰国により、私の上司となっていた。その上司にも、私のインド旅行の話はしていたので、その話を記憶されていたらしく、私がインドへ出張すると決まった時、「駅には泊まるなよ。」と言われた。そこで私は、「はい、今回、バックパッカーではありませんからね。」と返すと、上司は微笑んでいた。私はそれまで、スーツケースで旅したことなどなかったので、この時、人生で初めてスーツケースを買い求めた。出張先では、インディラ・ガンディー国際空港(デリー)の搭乗ゲートにいた時、停電になり、一面真っ暗になったことがあった。随分と長い時間、光が差しているのは、月の明かりと駐機している航空機のみという状態であった。その時、私は、歌を口ずさんでいた。「消灯飛行」(松任谷由実)である。♪見知らぬ国のビザを持ち 夜に消えてゆこう♪
話は戻り、貿易に関する専門用語と共に、同時に力を入れたのが、英語力の向上である。社内の教育訓練部門<SANYO Corporate Educational Training Center>では、泊まり掛けで研修を受けた。まず、注意を受けたのが、発音である。英語には、日本語にはない幾つもの発音の違いがあるが、そこを指摘されたのだ。「外国語が得意ではない人がコミュニケーションを取ると、苦労するのは相手のほうだ。」という話がある。つまり、一定のレベルを持った相手なら、かなり聞く努力をしてくれるので、通じてしまうのだ。そこで、通じれば良いと考えるのでなく、ネイティブに近づける努力をしなければならないのだと痛感した。担当の米国人講師は、英語学習を続ける上で大事なのは、「have fun(楽しむ)」ことだと考え、研修にも工夫が凝らされていた。
その研修の中で、印象的だったゲームがある。それは、一人が英単語を見て、自分の語彙力を駆使してその意味を英語で言い、相手がその意味から英単語を当てるというものだ。たとえば、こうである。私が手にしたカードの一つには、「govern(統治する)」と書いてあった。そこで私が、「control by authority(権力によって支配する)」などと言うことによって、相手に「govern」と言ってもらえるまで、言葉を出し続けるという具合だ。そして、各グループに分かれ、一定の時間内にどれだけ解答できるかをグループ間で競うというものだ。時間との闘いのため、スポーツした後の爽快感に近いものを感じた。1998年の春、その研修も修了し、週明けで出社した月曜日、上司にバンコク(タイ王国)への駐在の内示を受けた。
元々、私はバンガロール駐在員候補であり、研修もそのための準備を兼ねていた。聞くところによると、バンコク駐在員候補が事情により駐在できなくなり、バンガロール駐在員候補の私に話が回ってきたのだった。タイはインドよりも近く、また、日本からの駐在員も二名おり、私を加えて三名体制になるという話であった。初駐在ということを考えれば、願ってもない話である。まさに、「渡りに船」である。駐在する前、三洋電機貿易の社長に、「タイ語をしっかり勉強するように。」という指示を受けた。三洋電機貿易には、英語のみならず、スペイン語、フランス語、ロシア語から、アラビア語、ペルシャ語、ビルマ語に至るまで、数多くの語学の専門家がおり、大学の外国語学部などから、各語学専攻の卒業生を採用していたが、タイ語専攻は、長らく採用されておらず、当時30才代前半でもあった私は、「タイ語スピーカーを自社養成で。」と考えていたようである。それを再確認する日が来るとは、その時、考えもしなかった。
海外で暮らすのはこれが初めてだったが、不安もよそに仕事はとても快適だった。仕事共に力を注いだのがタイ語の習得だ。タイ語スクールは、現地でも有名な<Samaakhom Songsuum Theknoolooyii Thai Yiipun>(SST)に通うことにした。SSTのテキストは、とてもよく出来ており、他のタイ語スクールもSSTのテキストを採用しているほどだ。タイ語の難しさは、声調とタイ文字にある。声調とは声の高低を指し、声調が違うと同じ音節でも意味が違ってくるのだ。そんなある時、タイ人と話していると、一人は私の言ったことを理解している様子だったが、もう一人は反応がなかった。そこで理解していると思われるタイ人が私が言った文章をそのまま繰り返し言うと、反応がなかったタイ人はすぐさま理解したのである。それは、タイ語の発音の難しさを身をもって知った瞬間となった。それからというもの教室のみならず、仕事そして生活の中でも、相手のタイ人の口の形、舌の動きをよく観察し発声そのものをよく聞き取るように心掛けていった。
また、外国人である私が、タイで就労するには、労働許可証が必要なため、その労働許可証を取得するため、労働省雇用局に出向くと、暦が西暦ではないことに気付いた。仏教国のタイでは、仏暦が採用されていて、公文書はすべて仏暦で表記されているのだ。仏暦とは、仏教の開祖・釈迦の解脱を紀元とする暦で、タイのみならず、東南アジアの仏教徒の多い国などで用いられているとされ、私が暮らし始めた西暦1998年は、仏暦2541年となる。私など、「日本には元号で表記する和暦があり、海外には西暦が」という認識だったが、西暦はキリスト教による暦だと考えると、国民の95%が仏教徒のタイで仏暦というのは、むしろ自然な考え方だと認識を改めた。
ある時、バンコクを離れ、リゾート地として有名なパタヤに出張する機会があった。私が宿泊したアマリ・パタヤには小さな封筒が用意されていて、そこには、「Your small change could make a big change to someone's life.(あなたの小銭は、ある人の人生に大きな変化をもたらすことができる。)」と書いてあった。 英語表現の「change」の持つ「変化」という意味と「小銭」という意味を使い分けての表現である。タイには「タムブン」という言葉がある。それは、「功徳を積む」という意味で、タイ社会を貫く仏教的観念でもある。タイの人は、人間の幸不幸は自分が積んだ「ブン(功徳)」の多寡によって決まると固く信じており、良い人生を送るには「タムブン」は欠かせない行為となっているのだ。私は、その小さな封筒を手にしながら、タイ社会の一面を垣間見たような気がした。
バンコク駐在を機に、屋台からレストランまで、タイ料理を食べる機会は格段に増えた。タイ料理は、食材に、魚介や野菜を使用することも多く、日本人の口にも合いやすいのだと思った。バンコクにあるレストラン「ソンブーン・シーフード」は、プー・パッポン・カリー(蟹のカレー炒め)発祥の店としても知られる名店で、蟹と鶏卵が味の決め手となるプー・パッポン・カリーは、私のお気に入りとなった。そんな異文化に触れながら、駐在して半年が過ぎると、サッカー・アジア選手権の決勝トーナメントが、タイの古都・チェンマイで開催されるとのことで、駐在先であるSANYO Thailandの社長に、「社を代表して、表彰式に出て来なさい。」との指示を頂いた。そんな晴れの舞台に、私を抜擢して下さったことに心から感謝した。
私は、タイでも運転免許を取得していたので、自分で運転していたのだが、通勤している時、カーブで衝突し交通事故になってしまったことがあった。管轄は、バンコクのトンロー警察署で、相手方と一緒に事情聴取がなされた。タイでも、ツーリストポリス(タイ王国観光警察)などは、外国人が当事者となるので、英語のみならず日本語でも対応可能とされるが、ここは、ごく一般的な警察署である。そもそも、私はツーリストではなく、駐在員なので当然のことだ。警察署の取調官はタイ語のみの対応で、相手方もタイ人女性。そこで私は、直ぐに駐在先の事務所に電話し、応援を要請した。人事部門の女性マネージャー・ペンシリさんは、大学で日本語を専攻していたので、日本語が堪能なのである。
「頼みの綱」とは、このことに違いない。すると、ペンシリさんは、「今、手が離せないから、行くことが出来ません。」と言いながら、その声は明るかった。そこで、ペンシリさんは、こう付け加えた。「私が助ける必要なんてないです。きっと、大丈夫ですから。」と。異国の地で、駐在員が交通事故に遭っている状況でも、タイの人は、めったに慌てないのだ。何らかの助けがあると思っていた私の考えが甘かったのだ。結局、私一人で対応することになり、自分の頭の中にあるタイ語辞書を必死に、一つひとつめくっていった。結果として、私には責任が生じないと判断されたため、相手方が双方の車両の修理費を負担することで決着した。「私のタイ語が」と言うより、「状況が私に有利だった。」ただそれだけのことだろう。出社すると、ペンシリさんは、「怪我がなくて、本当に良かったです。」と、その表情も明るかった。そして、こう付け加えることも忘れなかった。「ね、大丈夫だったでしょ?」と。英語の格言に、「Practice makes perfect.(習うより慣れよ。)」というのがある。ペンシリさんは私に、タイ語を使う「Practice(実践)」の場を与えようと思っただけなのかもしれない。
翌年、SANYO Thailandの株主総会が行われ、主要株主の中で日本側からは、三洋電機貿易の社長、取締役アジア営業統括部長などが出席された。アジア営業統括部長は、私が国内営業部門から海外営業部門へと異動してきた当初から、ずっと見守って下さった恩人で、SANYO Thailandの社長を務められた時代もあり、また、ラーマ9世(タイ国王)に本社・会長が拝謁した際には、通訳を務められるなど、タイとの結び付きもとても深い方であった。アジア営業統括部長という立場上、海外の要人に会われる機会が多い中、「タイ国王の時は特別だった。」と述懐もされていた。その株主総会終了後、三洋電機貿易の社長が私の方まで歩いて来られ、「タイ語はしっかり勉強しているか?」と声を掛けて下さった。社長から見れば末端である私に、駐在する前と同様の事を言われ、会社の真剣さを深く理解することとなった。そして、社長のこの言葉が、私がその後、外国語に注ぐことになる情熱を決定付けたように思う。やがて、プライベートレッスンのタイ語スクールへと移り、タイ文字の読み書きに集中した。
当時、私を含めて日本人が三名いたが、二人とも、大学がタイ語専攻だった。そして、私は、機会があるごとに、誰かが日本語で話をすると、それを脳内でタイ語に変換する習慣を身につけていた。ある時、掃除機の製造部門の責任者が出張で来られ、スピーチされたことがあった。日本語でのスピーチだったので、私の上司がタイ語の通訳を引き受けた。私は自分なりに、責任者が話される言葉をタイ語に訳していたが、上司は、私が訳するよりも、通訳に時間が掛かっていた。しかしながら、上司の訳したタイ語を聞いてみると、私の訳したタイ語と同じだったのだ。その時、私自身のタイ語が一定のレベルにまで到達したことを実感した。
単身赴任でスタートした駐在生活ではあったものの、翌年からは家族帯同での生活になり、妻も同じSSTに入学した。私は、駐在に向けて社長から受けた指示もあり、タイ語の授業ではよく質問し、積極的に学んだ方だと思う。SSTでは、コース修了時に試験があり、60点を合格基準点とし、基準点を超えないと、次のステップには進めなかった。私は87点を獲得し、次のステップへと進んだが、一年遅れで入学した妻は100点を獲得していた。その時、私は、妻が外国語を学ぶ高い素養があることを知った。しかし、幸せな生活というのも長くは続かない。本国からの帰国命令である。人事異動の話を妻に告げると、妻は天井を見上げながら涙を流していた。妻は、めったに涙を見せない女性だったがゆえに、その時の情景は、今でもはっきりと覚えている。